HIP-HOPとは?誕生とその背景

みなさんは HIP-HOP に対してどんなイメージをお持ちですか? 「ラップをする音楽」という認識が多いかと思いますが、実はそれだけではありません。 この記事では、HIP-HOP が誕生したその背景について、ご紹介したいと思います。

Nami
2024-11-136min read

HIP-HOPとは?

HIP-HOP とは、アメリカはニューヨーク、サウスブロンクス地域で発祥した音楽ジャンル、またはカルチャー、芸術です。

ビートを流す DJ、観客を盛り上げる MC、ブレイクダンスを踊る B-BOY、グラフィティを書くライター(※1)の存在が HIP-HOP のカルチャーを作っており、これらは HIP-HOP の四大要素と呼ばれています。

グラフィティは特にイメージしづらいかもしれません。

グラフィティとは街の壁や建造物、地下鉄などに自分たちのマーキングや主張などの意味をこめて名前や印を示すために落書きをする行為、または仕上がった作品のことを指します。

グラフィティは違法で行われることがほとんどで、落書きとも捉えることができ、賛否が分かれる芸術とされています。

(※1)グラフィティを書く人のことをグラフィティーライターと呼びます。

photo by Linda Xu

HIP-HOPが生まれた背景

治安最悪なサウスブロンクス

ニューヨークのサウスブロンクスは、現在でもあまり治安が良くない地域ですが、HIP-HOP 黎明期にあたる1970〜1980年代のサウスブロンクスは特に最悪な状況とわれていました。

70年代に都市開発の影響や経済の急激な変化により治安が悪化、白人達は所有権を放棄した建物を残し、郊外へ移動。

残ったのは黒人やヒスパニック系、カリブ系などの労働者階級で、火災保険目当ての放火や強盗、殺人が日常的に起きる街になっていきます。このような事態に行政は何の措置もとらなかったため、サウスブロンクスは見放されたインナーシティとなりました。

当時のサウスブロンクスは「戦争で荒廃したような街」と表現されるほど荒れた場所でした。

THE BRONX NEW YORK VS HARLEM 1980'S|CharlieBo313

このような貧困層が住む地域を「ゲットー」と表現します。このワードは HIP-HOP の歌詞やアーティストの発言でよく耳にすると思います。

ブロックパーティー

1970年代は空前のディスコブームでしたが、お金のない黒人の貧困層の若者はディスコへはいけないため、彼らのコミュニティーでは「ブロックパーティー」なるものが開催されていました。

これは公園や路上で行われる音楽パーティーで、ジャマイカ発祥のサウンド・システム(スピーカーやレコードを使って野外で音楽を楽しむための設備)を用いて、当時流行していたディスコやファンクなどを流して パーティーを楽しむものでした。

このブロックパーティでは観客を楽しませるために曲を流す DJ、そして観客を盛り上げる MC がおり、この MC もジャマイカのリズムに合わせて言葉をはなす「トースティング」という文化が由来とされています。

この DJ と MC の連携から生まれたスタイルが、のちの HIP-HOP へとつながり、このブロックパーティは HIP-HOP が生まれる原点となりました。

HIP- HOP の誕生

ジャマイカからの移民である Kool Herc (クール・ハーク)は、カリスマ的存在であった DJ で、HIP-HOP の創設に大きく貢献した人物です。

Kool Herc が妹の Cindy Campbell(シンディ・キャンベル)のために開いたパーティーで、サウンドシステムを持ち込み DJ を担当していたとき、彼は曲の間奏でダンサー達が一番盛り上がることに気付きます。

Kool Herc は2台のターンテーブルを用いて、2つのレコードをつなぎ合わせ、間奏(ブレイク・ビーツ)を引き伸ばして演奏することを発明。これが DJ の原型となりました。

また、この日 Coke La Rock(コーク・ラ・ロック)は Kool Herc に頼まれ、曲が流れている間友人の名前を呼んだり、即興的に歌詞をつくってその場を盛り上げる役割を担いました。

これにより、彼は一番始めに MC を行ったとされる人物と呼ばれています。

このパーティーが開催された1973年8月11日は、HIP-HOP 誕生の日とされており、アメリカ合衆国上院は8月11日をヒップホップ記念日として制定しています。

HIPHOP創設に関わる重要人物

Kool Herc(クール・ハーク)

ジャマイカ出身の DJ 。HIP-HOP の基盤を作った人物。

レコードを2台繋げてブレイク・ビーツを保つという「メリーゴーランド」という DJ の基本となる手法を確立、さらに HIP-HOP のダンサーを「B-BOY」と名付けたともいわれている。

Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)

HIP-HOP を単なる音楽としてだけではなく、カルチャーとして作り上げることに大きく貢献した人物。

当時は犯罪に手を染める若者の更生手段として、HIP-HOP を文化としてまとめ Zulu Nation(ズールー・ネーション)を構築した。HIPHOP の四代要素を提唱し、さらにそこに知識を付け加えた。

Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)

Kool Herc を慕い、彼が作ったHIP-HOP の基盤をより音楽性として整えていった人物。ターンテーブルを研究し、メリーゴーランドを基にブレイク・ビーツをより滑らかにループさせる方法を発明。HIP-HOPのループに基づくビートの基礎を構築した。

さらに、現在でも HIP-HOP の表現として重要なスクラッチを広めた人物でもある。

1982年に自身のグループ である Grandmaster Flash and the Furious Five で発売した『The Message』は HIP-HOP を広めるきっかけとなり、HIP-HOP に社会的なメッセージを込めた最初の一枚となり、重要な位置付けとなっている。

HIPHOPの進化と拡大

まだ音楽ジャンルとして確立されていない頃でも、カリスマ的存在の DJ は憧れの的でした。

1977年にニューヨークで大停電が起きます。

そこで当時 DJ に憧れていた若者は停電に乗じてターンテーブルを盗み、その翌日から DJ や MC が急増。このことにより、HIP-HOP 人気にさらに拍車がかかったのだとか。

HIP-HOP が生まれた当初は、娯楽として楽しまれていたり、お祝い事やパーティーの場として発展していたため、歌詞の内容も明るく、仲間内で楽しく遊ぶことなどに焦点を当てたものでした。

以下は初めて録音されたヒップホップの曲です。

The Fatback Band - King Tim III (Personality Jock) (Official Audio)|Ace Records

何とも楽しげな雰囲気です。

また、翌年に発売された the Sugarhill Gang による『Rapper's Delight』は、商業的にヒットした最初の HIP-HOP となりました。

The Sugarhill Gang - Rapper's Delight (Official Video)|Sugarhill Records

パーティーソングであった HIP-HOP は、1982年に発売された『The Message』という曲で新たな側面を持ち始めます。

まだまだ黒人に差別が残る時代、さらにサウスブロンクスという見捨てられた地域で生きていく現実の辛さをラップにし、HIO-HOP が社会的なメッセージを担う側面を構築した曲です。この曲は HIP-HOP の歴史の中で、最も重要な曲とされています。

Grandmaster Flash & The Furious Five - The Message (Official Video)|Sugarhill Records

1980年代中頃になると、UTFO や Run-D.M.C. など、新たなスターが誕生し始めます。

Run-D.M.C. はロックと HIP-HOP を融合し、これまで一部でしか聴かれていなかったHIP-HOP をメインストリームに押し上げました。

さらに彼らは HIP-HOP ファッションにも大きな功績を残したことでも有名です。 

これまで派手だったステージ衣装ではなく、普段着のままステージに上がり、adidas を HIPHOP ファッションといて昇華させました。

RUN DMC - My Adidas (Official Audio)|Run DMC

暴力的なイメージについて

歴史をたどると、ゲットーという地域性により生まれながら犯罪に手を染めやすい環境、そして当時のアメリカ社会の不平等性も孕んだ背景が伺えます。

1980〜90年代にかけて、HIP-HOP はさらに発展し、HIP-HOP の舞台はニューヨークにとどまらず、西海岸でも盛んになっていきました。

この時期は黒人コミュニティーでクラック、つまりコカインが流行し、さらに治安が悪化した状況でした。さらに 1986年に施行された薬物の厳罰強化により黒人逮捕者が続出しはじめ、黒人の失業率も増加。クラックの流行から薬物の厳罰化は、当時大統領だったレーガンによる黒人を標的にした司法制度といわれています。

低所得層の黒人の状況がさらに悪くなり、犯罪数も増えていきました。そんなことも相まって差別の対象として見られたり、黒人というだけで逮捕されたり、奴隷制が終わってもなお虐げられる日常があったのです。

N.W.A は、そんな日常をラップに込め「ギャングスタラップ」と呼ばれるジャンルの草分け的存在となりました。

彼らの代表曲『Fuck tha Police』は物騒な名前ですが、これが彼らの日常だったのです。

N.W.A. - Fuk Da Police|NWA

抑圧や不平等への抗議を表現する手段であったラップは時に過激な表現も伴います。

1989年に Public Enemy による『Fight The Power』は黒人の人権を主張した一曲で、歴史的にも重要な一曲となっています。

Public Enemy - Fight The Power (Official Music Video)|Channel ZERO

このようなギャングスターの曲を、メディアでは暴力的な部分のみに焦点を当てて「危険な音楽」と報道することが多く、暴力的なイメージを助長したとされています。

また、苦しい現実を訴えるだけでなく、彼らの日常にある暴力を自慢するかのようなラップも横行していました。

このような背景があり、HIP-HOP はダークで物騒なイメージがついてしまったのだと考えられます。


まとめ

今回ご紹介したのは長い歴史のほんの一部ですが、こうして HIP-HOP は音楽的にも社会的にもその影響力を拡大し、ただの音楽を超えて、コミュニティや文化を代表する存在となっていったのです。

HIP-HOP は、2023年に50周年を迎えました。時代の移り変わりに伴い多様なジャンルやスタイルが生まれ、地域性や独自のカルチャーを大切にしながら発展し、今や世界でトップの人気を誇る音楽ジャンルとしてその歴史は今なお進化し続けています。

暴力的な表現や厳しい社会の現実を映し出す歌詞に抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、背景を知ることで聞こえ方が変わるかもしれません。

Nami
Written by
Nami

東京出身の音楽クリエイター。 幼少期から音楽に触れ、高校時代ではボーカルを始める。その後弾き語りやバンドなど音楽活動を続けるうちに、自然の流れで楽曲制作をするように。 多様な音楽スタイルを聴くのが好きで、ジャンルレスな音楽感覚が強み。 現在は、ボーカル、DTM講師の傍ら音楽制作を行なっている。 今後、音楽制作やボーカルの依頼を増やし、さらに活動の幅を広げることを目指している。

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