
音楽への入り口は「操縦」への憧れ
-伊藤さんの音楽との出会いは、少し変わっているとお聞きしました。
小学1年生の頃、姉が習っていた影響でエレクトーン教室に通い始めたのですが、僕の目的は”あの機械を操縦したい”ということでした。
当時の僕は、将来は飛行機のパイロットになりたいと思っているような、いわゆる「機械好きの少年」でした。エレクトーンにはボタンがたくさん付いていますよね。僕にはそれが楽器というよりも、複雑な操作を必要とするコックピットのように見えたんです。
-「操縦」が目的だったとなると、実際のレッスンは大変だったのでは?
先生は当然ドレミファから教えようとしますが、僕にとっては鍵盤なんてどうでもよかったんですよ。ボタンを触って機械を操作したいだけだったのに、発表会やコンクールに向けて練習させられるのが嫌で、泣きながら教室に通っていました。
生楽器の音に衝撃を受けて
-そんな状況が変わったのは何だったのでしょうか。
小学4年生の頃に、父の転勤でインドのコルカタという場所に住むことになり、日本のエレクトーン教室は辞めることになって。
現地では日本人学校に通ったのですが、そこの音楽の授業にたまたま「タブラ教室」があったんです。
-タブラといえば、インドの伝統的な打楽器ですね。
そうです。日本では、U-zhaan(ユザーン)さん・ASA-CHANGさんなどが演奏されていることでも知られている太鼓です。今振り返るとそれが人生で初めて触った打楽器になるのですが、現地にいた3年間、学校の音楽授業でずっとタブラに触れていました。
-帰国後、本格的にドラムの道へ進まれたのですか?
いえ、帰国後も相変わらずコンピューター少年で、中学の入学祝いで無理やりパソコンを買ってもらいました。そこで「DTM(デスクトップミュージック)」という世界があることを知ったんです。エレクトーンを習っていた頃の先生が、実は DTM にも精通している方で、再びその先生の元へ通い始めました。
先生からは”DTM で曲を作るなら、本物の楽器の特性を知らなきゃダメだ”と言われ、先生のスタジオにあったドラムセットを触らせてもらったんです。
その時、何の気なしにドラムを「トン」と叩いたら「ズドン」という音が出て、それがすごく衝撃的で。その瞬間、”俺はドラマーになる”と決意しました。
ドラムセットを叩かせてもらった時は”こんなに楽しい楽器あるんだ!”と天にも昇るような気持ちで、当時やっていた部活も辞めて、ドラム演奏に夢中になりました。

ドラマーとしてのバンド活動
-ドラマーとしての活動はどのようにスタートしたのでしょうか?
通っていた学校に国際学級という帰国子女専門のクラスがあり、僕は中学1年生の途中からそこに編入しました。英語で喧嘩が始まるような国際色豊かな環境で、仲間と過ごしていて。
高校1年生の時、アメリカでインディーズデビューしていたボーカルの男の子が日本に帰ってくるという話があり、彼を紹介されたのがきっかけでオリジナルバンドを始めました。これが僕の本格的なバンドキャリアのスタートです。
-ライブ活動もその頃から?
そうですね。1回目のライブはお客さんが14人、2回目は30人、そして3回目には下北沢の「屋根裏」というライブハウスを満員にしてしまいました。
“面白いことをやっているバンドがいる”という口コミが広がっていったのか、ライブをやる度に動員が増えて行ったんです。
高校生ながらにチャージバックでお金をもらうようになってきたり、大学入学後は渋谷のON AIR EAST(現:Spotify O-EAST)で開催されたオーディションで選ばれたりする経験を経て、「このまま音楽で生きていきたい」と思うようになっていきました。
その頃から、独学だったドラムを基礎から学び直すため、本格的に先生に弟子入りして、「ドラムを叩いてお金を稼ぐ以外の人生は考えられない」と、自らサポートドラマーとしての営業も始めました。
メジャーデビューと、現実とのギャップ
-メジャーデビューまではどういった経緯だったのでしょうか。
そのバンドは就職のタイミングで解散してしまったのですが、大学3年生の終わり頃、縁があって「POMERANIANS」というバンドに加入しました。その1年後くらいに、メジャーデビューが決まりました。当時は大きなチャンスをいただいた反面、バンド一本に舵を切ったことで、生活面ではかなり試行錯誤の時期に入りました。
-メジャーデビュー後はどんな状況だったのでしょうか。
それまで続けていたサポートの仕事を一区切りにして、バンド活動に集中することを選びました。その結果収入は安定せず、生活のために下北沢のフレンチビストロでアルバイトを始めることになりました。
-そのビストロでの経験が、今のライブハウス経営にも繋がっているのでしょうか。
そうですね。アルバイトの延長で、お店の3階の客席を使って、ライブイベントのプロデュースをさせてもらうようになったんです。
ブッキングから PA、接客、そして自分自身のドラム演奏まで、あらゆることを自分一人でこなしていました。
自分に与えられた空間で、自分の企画で、自分でお客さんを集めるというこの時の経験が、今のライブハウス経営の土台になっていると思います。

エンジニア、CMクリエイターとしての道へ
-一方で、録音や作曲の仕事にはどのようにシフトしていったのですか?
元々、自分で作曲するということは考えていませんでした。
POMERANIANS を辞めたあと、自らがリーダーを務めるバンドを始めたんですが、そこで、「自分たちの音を自分たちで残したい」という欲求から、自分でレコーディングもやるようになったんですよね。「録ってみたら、意外といい音で録れるじゃないか」という発見がエンジニアとしての原体験でした。
そこから、メンバーのセッションで録った音源に、DAWソフトで少しアレンジを加えるようになって、そこまでできるなら作曲もできそうだ、ということで作曲の道にも入っていきました。
-そこから CM制作の現場へ繋がっていくのですね。
先ほどお話した、最初に組んだ高校時代のバンド仲間との再会がきっかけでした。彼が広告業界に進んでいて、10年ぶりくらいに”CM の仕事を手伝ってくれないか”と声をかけてくれたんです。
-初めての CM のお仕事はどのような内容だったのでしょうか。
「天丼てんや」の Web CM でした。これが非常にユニークな企画で、エビメタバンドという架空のバンドが登場するんです。僕は単にドラムを叩くだけではなく、楽曲のアレンジから、レコーディングメンバーの選定、さらには実際に CM に出演するメンバーのキャスティングまで、制作の根幹から関わりました。僕自身も CM にドラマーとして出演しているんですよ。
この「てんや」の仕事を機に、僕の元には少し変わった、エッジの効いた CM の依頼が来るようになりました。ある企業CMでは、タレントさんの動きに合わせて、音楽のアレンジだけでなく、声のニュアンスまで含めて設計したり、私自身が歌う機会もありました。
音楽単体ではなく、「映像と一体で機能する音」を考えるようになったのは、この頃からですね。
-作曲やアレンジのみならず、エンジニアとしても制作に関わられているんですよね。
はい。専門学校を出て下積みをしたわけではない「ミュージシャン上がりのエンジニア」ということになるのですが、エンジニアとしての自信を持てるようになったのも、CM制作を経験したからだと思います。
自分が手がけたミックスがテレビという公共の電波に乗り、何の問題もなく流れている。その事実を確認するたびに、「自分のスキルは、自分だけの楽しみではなく、誰かの役に立つものなんだ」という確信に変わっていきましたね。
まとめ
始まりは機械としてのエレクトーンに興味を持ち音楽をスタートさせ、その後もドラマーとしての枠に収まらず、様々な場へと活動を広げてきた伊藤氏。
興味や好奇心をとことんまで追求することが、プロフェッショナルへとつながる道になるのだなと感じました。
次回は、伊藤氏がオーナーを務める、レコーディングスタジオとしても活用されるライブハウス「Music Island O」の魅力についてお伝えします。
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伊藤勇気氏プロフィール
ビクターエンタテインメントよりPOMERANIANSのドラマーとしてメジャーデビューし、FUJI ROCKやSUMMER SONICをはじめ大型フェスにも多数出演。
以降Afrobeatバンドhype sessionsを率い、CM音楽制作や多数アーティストのサポートドラム、エンジニアリングなど幅広く活動。ドラム講師としても長年にわたり後進の育成に携わる。
音楽制作(作家・エンジニアリング)では、誰もが一度は耳にしたことのある大手企業のCM音楽を多数手がけ、ジャンルや業種を問わず提供。
2022年にはナイジェリアのサックス奏者Adebowale Osunnibu(SEUN KUTI & EGYPT 80)とLAGOS TOKYO PROJECTを立ち上げ、国際的な音楽制作にも着手。
下北沢で10年にわたりライブハウス「Music Island O」を経営。新旧が交差する音楽の現場で、表現者と観客をつなぎ、時にプロデュースやコーディネイトも行う。

シンガーソングライター。2012年デビュー、メジャーレーベルからリリースするなどの活動後、現在はフリーに。作詞作曲、ステージでのパフォーマンスを軸に、サッカーチームの応援ソング書き下ろし、企業オリジナルソングの制作、アーティストへの楽曲提供、ラジオパーソナリティなど多分野で活動を展開中。







