
映画『マイケル』公開記念——アルバム『スリラー』とシンセサイザーの記憶
2026年、伝記映画『マイケル』が公開され、マイケル・ジャクソンの音楽史における偉大なサウンド・デザインが改めて注目されています。その最高峰が1982年のアルバム『スリラー』です。マイケルとプロデューサーのクインシー・ジョーンズらが追い求めたのは、誰も聴いたことのない最先端の響きでした。
アナログからデジタルへの過渡期だった1980年代初頭、本作には発売されたばかりの最上位シンセサイザーが多数投入され、緻密な職人技によって編み込まれました。サンプリングやデジタル合成の黎明期に、彼らはどのようにして魔法の音を生み出したのでしょうか。当時の記録から、歴史を創った名機たちと名曲の関わりを紐解いていきます。
1. 「Beat It(今夜はビート・イット)」× NED Synclavier II(シンクラヴィアII)
ドアを叩き破るような、あのデジタル・ゴングの正体
アルバムのなかでもロックとダンスの融合として際立つ「Beat It」。この曲の冒頭、静寂を破って不穏に鳴り響く「ゴォォォン……」という金属的な重低音を覚えている方は多いのではないでしょうか。あの伝説的なオープニング・サウンドを生み出したのが、当時家が一軒買えるほどの価格(システムによっては数千万円規模)だった超高級デジタル・シンセサイザー/サンプラー、NED(New England Digital)社の Synclavier II(シンクラヴィアII)です。
当時、アレンジに関わっていたトム・バエラーがスタジオに持ち込んだ Synclavier II から鳴らされた音は、何か特別なエディットを施したものではなく、実はファクトリー・パッチ(最初から内蔵されていた既製の音)、いわば箱から出してそのままの音であったことが当時の記録で判明しています。
マイケルはそのデモの音を非常に気に入り、一音一音を正確に再現してイントロに採用しました。エンジニアのブルース・スウェディンがスタジオの EQ で迫力を足したものの、基本は Synclavier が持つ FM合成(周波数変調)特有の、冷たくも暴力的なまでにクリアな金属音そのものです。
この先進的なデジタル・ゴングが鳴り響いた直後、一転して泥臭いエレクトリック・ギターのフレーズとハードなドラムへと流れ込みます。この“超未来的デジタル音”と、スティーヴ・ルカサー(Gt)、ジェフ・ポーカロ(Dr)、スティーヴ・ポーカロ(Syn)といった TOTO の主要メンバー、そしてギター・ソロのエディ・ヴァン・ヘイレンが演奏するなど、“王道ロック”の鮮烈な対比こそが、ストリートの緊張感を一気に高め、世界中を興奮させた「Beat It」の最大のフックとなっています。
2. 「Billie Jean(ビリー・ジーン)」× Yamaha CS-80
唯一無二のグルーヴを支える、重厚にして哀愁を帯びた“波”
マイケル・ジャクソンの代表曲の一つ「ビリー・ジーン」。世界を踊らせたあの不滅のグルーヴは、徹底的に計算されたベース・ラインと、その上で静かに明滅するシンセサイザーのコード・パッドによって形作られています。ここで聴ける、どこか物悲しく、しかし圧倒的な肉厚さを持つストリングス・サウンドの主が、日本のヤマハが1977年に発売したアナログ・シンセサイザーの最高峰 Yamaha CS-80です。
CS-80は、総重量約100kgにも及ぶ巨大なモンスターマシンであり、映画『ブレードランナー』のサウンドトラックなどでも知られる名機です。
トラック・シートおよびシンセ・プログラマーとして参加したビル・ウォルファーやマイケル・ボディッカーらの証言によると、この印象的な4コードの基本ヴァンプ(繰り返しのコード進行)は、”マイケル・ジャクソン自身がスタジオで CS-80に向かい、わずか1テイクで弾いた”という説もありましたが、実際にはビル・ウォルファーがマイケルの頭の中にある音を CS-80で再現して弾いたとのこと。
CS-80が放つ独特のふくよかなアナログの歪み成分を含んだサウンドは、フィルターの絶妙な開き具合によって、主張しすぎず、しかし楽曲の底流に太いエモーションを注ぎ込みます。さらにこのシンセコードは、マイケル自身が各構成音を何重にも声で歌い重ねたマルチトラックのボーカル・コーラスと緻密に融合されており、無機質なエレクトロ・ポップとは一線を画す、艶やかな魅力を生み出すことに成功しています。
3. 「Thriller(スリラー)」× Roland Jupiter-8 & ARP 2600
映画的スペクタクルを実現した、日米アナログ・シンセの競演
アルバムのタイトル・トラックであり、ホラー映画の要素を大胆に取り入れた「スリラー」。この曲のイントロ、ドアのきしむ音や不気味な雷鳴に続いてリスナーの鼓膜を襲う劇的なシンセサイザーのブラス、地を這うようなファンキーなベース・ラインは、当時の最高峰アナログ・シンセサイザーたちの複合技によって構築されています。
なかでも重要な役割を果たしたのが、1981年にローランドが発売した国産ポリフォニック・シンセのフラッグシップ Roland Jupiter-8です。
シンセ・プログラマーのアンソニー・マリネリらは、Jupiter-8の“2つの音色を重ねて同時に鳴らすモード(ダブル・モード)”を使用し、モジュレーション・ホイールでフィルターをリアルタイムに開閉させることで、あのダイナミックで重厚なシンセ・ブラスを表現しました。
また、イントロの最初期に聴こえる流れ星が落ちるような下降音や、曲中を支配するファットなベースラインの一部には、アメリカの伝統的セミ・モジュラー・シンセサイザーである ARP 2600が投入されています。
長年、あのベースは Moog Minimoog の重ね技だと思われていましたが、近年のオリジナル・マルチトラックの解析やアンソニー・マリネリ自身の解説により、ARP 2600が放つシャープで芯のある低域がサウンドの核を担っていたことが実証されています。日本製の Jupiter-8の洗練されたきらびやかさと、アメリカ製のARP 2600という荒々しく太い骨格のレイヤー。この緻密な音響設計こそが、ただのコミック・ソングに終わらない、グラミー賞級のシアトリカルな緊張感を楽曲に与えているのです。
4. 「Human Nature(ヒューマン・ネイチャー)」× Sequential Circuits Prophet-5 & Roland Jupiter-8
夜のロサンゼルスを想起させる、繊細にして幻想的なアンビエンス
スティーヴ・ポーカロ(TOTO)がソングライティングとシンセ・プログラミングを手掛けた名バラード「ヒューマン・ネイチャー」。この曲は、アルバムの中でも最もシンセサイザーの芸術性が静かに発揮している1曲です。
都会の夜の明かりが明滅するような、あの美しいオープニングの高速アルペジオのフレーズは、Jupiter-8によって奏でられたものであることがスティーヴ・ポーカロ本人によって明かされています。Jupiter-8特有の、濁りのない透き通った音の粒立ちが、リスナーを瞬時に幻想的な世界へと誘います。
そして、楽曲全体を優しく包み込む温かみのあるコード・パッドには、1970年代末に登場し世界を席巻した名機 Sequential Circuits Prophet-5、そして前述の CS-80が幾重にもレイヤーされています。
Prophet-5のアナログ特有の温かみと、CS-80が持つ滑らかなグライド効果が組み合わさることで、水彩画のように滲むストリングス・サウンドが完成しました。マイケルのささやくようなボーカルと、この極上のシンセサイザー・アンビエンスが溶け合うことで、R&B の枠組みを遥かに超えた、普遍的な都市の叙情詩が誕生したのです。
まとめ:マイケルの直感と職人たちがたどり着いた“音への執念”
アルバム『スリラー』で使用されたシンセサイザーの系譜を当時の資料から俯瞰して気付かされるのは、彼らが決して機械に演奏を丸投げしていなかったという事実です。
クインシー・ジョーンズ率いるチームは、LinnDrum(LM-1)といった当時最新のデジタル・リズムマシンを導入しつつも、ベースやコードの演奏には徹底してアナログ・シンセサイザーの人間らしい揺らぎや、リアルタイムのツマミ操作を組み合わせました。デジタル技術の持つ完璧な冷徹さと、アナログ技術の持つ生々しいダイナミズムのバランスが、1ミリの狂いもなくコントロールされていたのです。
そして何より、どれほど複雑な最新機材がスタジオに並ぼうとも、最終的な決定権は常にそれが肉体的に踊れるか、感情を揺さぶるかというマイケル・ジャクソンの原始的な直感に委ねられていました。
映画『マイケル』で描かれるであろう彼の苦悩と栄光のプロセスの背景には、こうしたスタジオでの飽くなき音への執念がありました。劇場で彼の歌声とベースラインを耳にするとき、その背後で息づく1980年代シンセサイザーの巨星たちの響きにも、ぜひ耳を傾けてみてください。ポップスの概念を変えたあの魔法の音が、より一層の深みをもって迫ってくるはずです。

株式会社Core Creative代表。株式会社リットーミュージックで、キーボード・マガジン編集部、サウンド&レコーディング・マガジン編集部にて編集業務を歴任。2018年に音楽プロダクションへ転職。2021年、楽曲制作をメインに、多方面で業務を行う。2022年、事業拡大のため株式会社Core Creativeを設立。現在は東放学園音響専門学校の講師なども務め、さらなる事業拡大のため邁進中。







