グラミー賞投票メンバー、AES での発表....世界的エンジニア・深田晃氏のキャリアに迫る|音楽が自分に対して力になると感じていた

深田晃氏は、音楽レコーディング、中継番組、映画録音など、多岐にわたる分野で録音を行い、ジャンルや国境を越えて「音」に取り組んできたエンジニアです。 その実力は、世界でも認められ、ワールドワイドに仕事を行っています。 国内外で豊富な経験を持ち、録音技術の発展を牽引している深田氏は、どのようなキャリアを築いてきたのでしょうか? その歩みと、音楽への想いに迫ります。

Nami
2024-07-1010min read


深田晃氏は、音楽レコーディング、中継番組、映画録音など、多岐にわたる分野で録音を行い、ジャンルや国境を越えて「音」に取り組んできたエンジニアです。

その実力は世界でも認められ、ワールドワイドに仕事を行っています。

オーディオ技術に特化した唯一の世界的専門団体である AES(Audio Engineering Society)で1997 年に「Fukada Tree」というマイキング手法を発表し、イマーシブ録音の先駆者としてその名を広めました。

その他にも、ドイツ、アメリカ、中国などで講演を行ったり、米国レコーディング・アカデミーの会員としてグラミー賞の選考にも携わるなど、業界のリーダーとしての地位を確立しています。

国内外で豊富な経験を持ち、録音技術の発展を牽引している深田氏は、どのようなキャリアを築いてきたのでしょうか?

その歩みと、音楽への想いに迫ります。


エンジニアになったきっかけ「ただ自然に音楽をやっていたんです」

-音楽との関わりはいつ頃からありましたか?

私の父親はバイオリニストだったので、幼い頃から自然と音楽が身近にありました。
家にはよく演奏家の人たちが集まってアンサンブルをやっていたり、私も物心がついた頃にはバイオリンとピアノをやっていたり。

特に私が学生の時は、安保闘争(※1)に付随した学生運動が盛んで、学校が封鎖されたりして授業があんまりなかったんです。なので勉強というよりは音楽が中心の日々でした。

大学時代には Jazz クラブに入ってフルートやサックスなどを演奏したり、作曲もこの頃に勉強し始めました。

(※1)1950〜60年代にかけて起こった、日米安全保障条約に対する反対運動。

-当時はどのような音楽に影響を受けていたんでしょうか。

この頃は現代音楽が盛んになってきた時代でした。

例えば、John Milton Cage Jr.(ジョン・ケージ)に代表されるチャンス・オペレーション。これは偶然性の音楽といって、彼の『4分33秒』という曲は音がない音楽です。つまり、演奏しないんですよ。

ピアニストが出てきて、4 分 33 秒間ただ座っているだけ(笑)。その間に観客がざわざわする...っていうのが音楽なんです。

現代音楽は今までの音楽とは異なる新しい音楽で、日本にも武満徹(※2)さんという現代音楽の作曲家がいました。

学校があまりなくて、自分の中で何かふつふつとした感情がある時に、武満徹さんの音楽に影響されて自分も音楽を書いてみたいと思うようになって。それで作曲を勉強し始めたんです。

(※2)20 世紀を代表する音楽家の一人。特に現代音楽の分野で活躍し、その作品は国際的にも高い評価を受けている。代表作である『ノーヴェンバー・ステップス』は琵琶と尺八をオーケストラに取り入れるという西洋と東洋の音楽文化を融合させる試みを行い、大きな功績を残した。

-プレイヤーとして、そして作り手として音楽に触れていた学生時代から、どのような流れで音楽エンジニアになったんでしょうか?

音楽家やエンジニアになろうという気持ちは全くなくて、ただ自然に音楽をやっていたんです。スタジオのことも全然知らなかったですし。

でも、音楽をやっているばかりでは食べていけないので、電子楽器を扱う会社は面白そうだなって思って、まずは大阪に本社があった Roland (ローランド)に就職しました。

Roland で働いてしばらくした頃、新聞広告にたまたまモウリスタジオの求人記事を見つけて、音楽スタジオって音楽を作ってるとこだよな...だったら面白いかもしれない!って思い面接に行ったことが、エンジニアになるきっかけでした。

エンジニア下積み時代での経験「テープレコーダーをバラバラに解体」

-それでは、エンジニアの道は0からのスタートだったんですね。

はい。初めはスタジオで流す音があまりに大きいので、耳栓を入れてました(笑)。

その頃はずっとアシスタントをやっていましたが、ビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント株式会社)や東芝EMY(現:株式会社EMIミュージック・ジャパン)、株式会社CBS・ソニーレコード(現:株式会社ソニー・ミュージックレコーズ)、テイチク(現:株式会社テイチクエンタテインメント)などの会社で月曜日から金曜日までびっしりスケジュールが埋まっていました。

当時はまだ音楽スタジオが音響ハウスとモウリスタジオぐらいしかなくて、スタジオを持ってるレコード会社もまだ少なかったんだと思うんですよ。

-下積み時代で印象的なエピソードはありますか?

当時のモウリスタジオでは、アシスタントをやるための試験があったんです。

夜中に一人で作業している時に、機材トラブルで何かあったら作業が進められないじゃないですか。なので、既に使っているテープレコーダーをバラバラに解体して、それを英語のマニュアルをみながらまた組み立てるんです。

組み立てたものを使えるようにしなきゃいけないので、測定器でちゃんとデータを取って、正しく動作するようにする。でもその測定器の使い方もわからないので、それもマニュアルを見ながらやって....これが試験の内容でした。

-モウリスタジオの次に CBS SONY に移られていますが、どのような経緯で移籍されたんですか?

CBS SONY に誘われたのがきっかけです。

入って初めの頃は、マスターテープの音の勉強のために、アメリカの CBS から送られてくるマスターテープを聴いて編集するっていう作業を毎日やっていました。

CBS SONY にもアシスタントになるための試験があったんですけど、「最終商品がどうやってできているかを知らないで、録音なんかできない」っていう考えが根本にあって、マスタリングの工程を学んで初めてアシスタントになれるんです。

当時はまだレコードの時代だったので、カッティングっていうレコードを作る工程を学んだり、マスターテープに入っている膨大な情報量を、いかに音質を損なわずにディスクに収めるかっていうことを勉強しました。

-アシスタントになるための試験が当時はあったんですね。
CBS SONY ではどのような仕事内容だったんですか?

主に CD 制作ですが、日本以外にも、ロンドンの Abbey Road Studios(アビー・ロードスタジオ)で録音したり、海外のスタジオやホールも経験しました。

また、当時は音楽業界も活気があって、海外からも大物アーティストが来たりしました。

Bill Evans(ビル・エヴァンス)のトリオメンバーのエディ・ゴメス(Eddie Gomez)や世界的に有名なドラマーである Steve Gadd(スティーブ・ガット)、マイケルジャクソン(Michael Jackson)とかですね。

アーティストと一緒にエンジニアも向こうから来ていて、アシスタントについた時は色々教えてくれるんです。日本は見て学ぶ文化でしたが、彼らはマイクの立て方に加えて「なぜならば」っていう理由まで教えてくれたので、とても勉強になりました。

更なる次のステップへ「世界を見据えるとグラミー賞があると考えた」

-CBS SONY の後に NHK に移られていますが、どのような経緯で移籍されたんですか?

売れてるアーティストたちは、一流のスタジオミュージシャンと仕事するので、必然的にスタジオミュージシャンのメンバーが似てくるんですよ。

毎日スタジオに来るアーティストは違うんだけど、顔を合わせるミュージシャンはほとんど同じ。
そんな日々をずっと繰り返してると、全くクリエイティブに思えなくなっちゃったんです。

それでも NHK から誘われた時、 レコード会社と放送局って全然違うので、迷いはしたんですけど、ちょっと人生を変えてみるのもいいかなって思って面接をしてもらいました。

-NHK はまた音楽スタジオとは違うと思いますが、どのようなワークを行なっていたんでしょうか?

当時の NHK は外部から来た人間に色々と改革してもらいたいという思惑があったみたいで。
中継番組を担当したり、N 響のオーケストラの録音などに加えて、NHK のスタジオの音響を良くするための提案や、N 響のコンサート録音時の録音方法を提案したりもしました。

NHK って、放送局だから「中継」っていう言葉があって、そこで行われてるものをそのまま伝えるっていう考え方だったんですよ。

だから N 響に関しても、使用するマイクと位置が決まっていて、NHK ホールはこれで録音しますっていうやり方だったんです。

でも世間の風潮はどんどん変わっていくので、そういった流れに沿ったマイキング方法を提案したりしていきましたね。

ちょうどこの頃に AES(Audio Engineering Society)の会員になって、色々とワークショップへ行ったりしてました。
1996 年頃から研究し始めたサラウンド録音は、AES でサラウンド録音方式を発表して、それが「Fukada Tree」と呼ばれるようになりました。

-色々と録音に対して熱心に追求されていたんですね。
深田さんがこれまでで一番緊張した仕事はなんですか?

長野オリンピックの開会式ですね。

本番の6年くらい前からプロジェクトがスタートしていて、計画を練っていたんです。その開会式の音に関する責任者をやりました。

-生中継で失敗が許されない中で、どのように大きな仕事を乗り越えてきたんでしょうか。

誰しもプレッシャーはあると思うんですけど、考えすぎないことかもしれないです。

もちろん、事前の準備はものすごくやっていることは大事ですけど、トラブルが起きても後ろを振り返りすぎない方がいいのかなって思っています。

私もトラブルは色々ありましたけど、今までなんとか乗り越えました。

経験だけではなんともなんない時もあるので、そういう時は周りの人の協力だとかを得たり。やっぱり1人で悩んでてもしょうがないです。

-これまでの失敗談などはありますか?

SONY 時代、ロンドンにある Henry Wood Hall(ヘンリー・ウッド・ホール)で録音があって、全部で 80 キロにもなる荷物や機材を全部持って飛行機に乗ったんです。

でも、到着したら空港の税関で機材が没収されちゃって(笑)。

それがないとレコーディングできないし、でも私1人では取り戻せないなと思って。
ロンドンに SONY の支社があったので、そこに電話して事情を説明したら、色々と交渉してくれて、レコーディングする日の朝にやっと戻って来ました。

後から笑える話なんかたくさんありますよ。

でも、私の場合は本番までにはなんとか解決しているので、これまで取り返しがつかなくなったことはないですね。

-グラミー賞の投票権を持つ米国レコーディング・アカデミーの「Voting Member」になった経緯は何だったんでしょうか?

日本ではプロ音楽録音賞も何度か受賞していたので、世界を見据えるとグラミー賞があると考えたことがきっかけです。

グラミー賞を受賞しているニューヨーク在住のエンジニアの友人に、どうすればグラミー賞に応募できるのかを何度も聞きました。

-会員はどのようなことをすればなれるのでしょうか?

グラミー賞は米国で作品が販売されていること、レコーディング・アカデミーの会員であること、この2つが最低条件としてあるみたいで。

売れているアーティストなどにはグラミーの会員への推薦枠があったり、大手のレーベルはレーベルとしての会員にもなれるようですが、私のような個人は会員への応募をしなければなりませんし、今までの作品や活動報告と現在のグラミーの会員2名の推薦も必要です。

なので、私の実績となる制作された CD や配信音源などのクレジットのコピーや、AES(Audio Engineering Society)での論文や実績などをまとめた色々な書類を送りました。

そうして会員資格があると認められ、グラミー賞の投票権を持つ Voting Member として会員になりました。現在所属はニューヨーク支部です。

仕事のモチベーション「音楽が自分に対して力になるなという風に感じていた」

-今回、キャリアを伺って、常に次を目指す深田さんの探究心を感じました。

興味で動いているのは大きいと思います。

それと、音楽は日常でもあったし、楽しみでもあったんですけど、私の場合はそれだけではなくて。

勉強したくてもできない時代だったんで、生きがいというか、音楽が自分に対して力になると感じていたんですよね。そういった思いがずっと残っています。

-武満徹さんの音楽に影響されていらっしゃるとのことですが、どのような部分が衝撃だったんでしょうか。

それは言葉にするのは難しいかもしれません。

例えばピアノを録音する時、自分の理想のピアノの音ってなんだろうかって考えた時に、おそらく昔見たコンサートですごく感動した時のピアノの音だとか、心を打たれた音だとか。

忘れてるかもしれない「何か」の音が、心の奥の方に核みたいにあって。そういうことに近いのかなと思ったりします。

そして、そういう音を求めて録音もやってるのかなとも思ったりしますね。

それは思い出の中にあることだから、どういう音かわかんないし、探してもないかもしれない。

だから、いくら仕事しても「これで満足」っていうことはなくて、なんかまだ物足りないというか。

-エンジニアの仕事をしていて、よかったなと感じる点はありますか?

この仕事をしていると色んな音楽から学べるし、色んな音楽家の方たちと出会うことで受ける影響がすごく大きいんですよ。

例えばバイオリン・ソロのレコーディングってなったら、最初にちょっとだけ演奏してもらって、マイクの位置を決めたり、どういう音の感じにするかを一緒に決めたりするじゃないですか。

いざ録音が始まって、楽譜を見ながらレコーディングをしていると、気持ちは演奏してる人と全く同じ気持ちになっているんです。

演奏家がちょっとミスしちゃったら、自分も「あ、ミスしちゃった」って思うくらいの感じで同じ方向を見て仕事をしている。その人が考えてる気持ちはすごくわかるし、同時に影響も受けていると感じますね。

ストイックな歌手の方がいたり、 素晴らしいバイオリニストの方がいたり。一緒に仕事をする中で、そこの刺激って大きくて。

いつも勉強させてもらっていると感じるし、 いつまでたっても音楽をやっててよかったなと強く思いますね。


まとめ

インタビューを通じて、幼少期から音楽が身近にあった深田氏の心の中に芯として音楽が存在し、それが彼の人生や仕事における中心となっているという印象を受けました。

「勉強したくてもできない時代だったんで、生きがいというか、音楽が自分に対して力になるなと感じていたんですよね。そういった思いがずっと残っています。」

この言葉が印象的でした。

常に新しい技術を求め、探求し続けているている深田氏。

エンジニアとしての様々な成功は、「好き」以上の音楽への深い愛情が根底にあり、その愛情が彼のキャリアに深く結びついてるのでしょう。


深田晃氏プロフィール

深田晃(フカダアキラ)
CBS SONY(現:Sony Music Entertainment)や NHK放送技術制作技術センターでチーフエンジニアとしてキャリアを積んだ後、自身の会社である dream window inc. を2011年に設立。

NHK交響楽団やサイトウキネンオーケストラといったオーケストラ、スタジオジブリ作品『思い出のマーニー』や 北野武監督作品『首』などの映画サウンドトラック、Jazz ピアニスト Richie Beirach(リッチー・バイラーク)のバラード集『Ballads』などの海外アーティストとの作品など、様々なジャンルでレコーディングを担当。これまでに数々の CD 制作、TV 番組、映画にエンジニアとして携わる。
2011 年〜2024 年まで洗足学園音楽大学の客員教授を勤め、教育にも取り組む。

名前:深田晃(ふかだ あきら)
所属:dream window inc.(ドリーム ウィンドウ)
参加学会:
AES(Audio Engineering Society) Fellow
IBS 英国放送音響家協会会員
米国レコーディング・アカデミー(所属:ニューヨーク)
プロデューサーズ・アンド・エンジニアズ・ウイング
生年月日:1953年8月24日
出身:大阪府
出身校:関西大学工学部
趣味:旅行

Nami
Written by
Nami

東京出身の音楽クリエイター。 幼少期から音楽に触れ、高校時代ではボーカルを始める。その後弾き語りやバンドなど音楽活動を続けるうちに、自然の流れで楽曲制作をするように。 多様な音楽スタイルを聴くのが好きで、ジャンルレスな音楽感覚が強み。 現在は、ボーカル、DTM講師の傍ら音楽制作を行なっている。 今後、音楽制作やボーカルの依頼を増やし、さらに活動の幅を広げることを目指している。

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