エンジニア、天童淳氏「音」を追求し続けた40年|音は機材ではなく、人で変わる

井上陽水さん、岩崎宏美さん、財津和夫さん…など、名だたるアーティストの作品に携わってきたエンジニア・天童淳(てんどうじゅん)氏。天童氏は1982年にキャリアをスタートさせ、現在も数々の作品のレコーティングとミキシングを手がけています。約40年の経験を持つエンジニアは、どのようなキャリアを歩んできたのでしょうか?今回の記事では、天童氏のこれまでの音楽キャリアや音楽への思いについて伺いながら、天童氏の「音」への向き合い方を紐解いていきます。

Nami
2023-10-2013min read

スタジオ所属時代で堅実に培ったキャリア

-天童さんがエンジニアに興味を持ったきっかけを教えて下さい。

初めからエンジニアを目指していた訳ではなく、元々はベースでプロになりたいと思っていました。ベースを始めた理由は、昔から音楽を聴くのは好きだったんですが、ある時 Jazz fusion (ジャズ・フュージョン)(※1) に出会っちゃって。Jazz fusion に出会ったら、もう楽器をやらざるを得ないじゃないですか。それで高校2年生の時に、当時札幌の中島公園にあった YAMAHA で本格的にベースを習い始めました。習って少し経った頃には、社会人に混ざって、Chick Corea(チック・コリア)や Joe Sample (ジョー・サンプル)などの曲を題材にして、バンドアンサンブルを学ぶコースに参加していました。

エンジニアに興味を持ったきっかけは、色々音楽を聞いていくなかで、海外のレコード盤は音が立体的で音圧もあるのに、何で日本盤はそうじゃないんだろう・・・と思い始めたことです。
自分の楽器の音を良く録ったり、PA をするための知識を得るためぐらいの軽い気持ちで、日本電子専門学校に行きました。ここには当時、音響芸術科という学部があり、レコーディングスタジオも併設されていました。

(※1)Jazz fusion (ジャズ・フュージョン)。ジャズが別ジャンルのポピュラー音楽(主にロックやファンク)と融合して1960年から1970年代に隆盛したジャンル。fusion は日本語で「融合」という意味を持つ。

-始まりは楽器からだったんですね。その流れでエンジニアにシフトしていったのでしょうか?

エンジニアとしての知識がついてきても、やっぱりベースでプロになりたいって気持ちがあって、ベーシストとしてのオーディションは受けていました。
ただ、いきなり楽器一本で食っていくのは難しいなって思って、その時通っていたスタジオで担当して下さっていたエンジニアの方に相談したんですよね。その方の提案もあり、まずはエンジニアとして働いてみようとなって YAMAHA 渋谷店に入社し、 LM センター(※2)に所属しました。そうしてエンジニアとしてのキャリアを始めましたが、私は運が良かったのか LM センター所属時期から最前線の一流ミュージシャンと仕事させてもらえたんです。でも、そんな人に毎日ついてたら、ベースでやってくのは無理だと実力の差を感じてね。到達点のような人たちばっかりだったから。
一方で、そういう日本の最前線の人たちの音を録ったりするのが楽しいなと思っていて。 

(※2)LM センター(正式名称:YAMAHA SHIBUYA LIGHT MUSIC CENTER)。LM とは、軽音楽を英語に直訳した Light Music(ライトミュージック)を省略した名称。LM センターは、当時渋谷店に存在したセクションで、ピアノやギターをはじめとした LM で使用する楽器の演奏を教える教室や、レンタル、その他レンタル・スタジオ、レコーディング・スタジオを運営していた。

YAMAHA 渋谷店外観(2010年11月撮影)(天童氏ご提供写真)

-それでエンジニア業に没頭していったんですね。
YAMAHA 渋谷店 LMセンターはどのような場所だったのでしょうか?

2010年に閉店しちゃった渋谷店なんですが、その中に LM センターがあって、そこが私にとってエンジニアとしてのスタートになっています。そこには簡素なレコーディングスタジオがあり、アマチュアやセミプロの方達のレコーディングをしていました。
あと、お店の1階の奥に「 Doin' 」というライブハウスがあったので、そこで時々 PA のエンジニアリングもやっていました。

1970年代の YAMAHA 渋谷店 LMセンター入口横の看板(天童氏ご提供写真)‌ ‌

-渋谷店の中に、楽器屋、教室、ライブハウスまで入っていたんですね。

渋谷店自体が4フロアーあって、結構大きかったんですよ。地階には譜面と書籍売り場、1階はレコード売り場とライブスペース(「 Doin' 」)、2階はギター、ベース、キーボードなどの、いわゆる LM 楽器、その他録音や PA 機材などの売り場、3階は管楽器、ドラム・パーカッション、ピアノ、エレクトーンなどの売り場と LM センターが併設されていました。
ライブハウスでは YAMAHA の最新の機材がバンバン入れられてて。2階には防音ブースも併設されていて、各社のシンセサイザーの新製品やレコーディング機材も気兼ねなくじっくりと音を出せたので、現場寄りの展示場みたいになっていましたね。
特に当時の渋谷店は YAMAHA の旗艦店(きかんてん)だったので、YAMAHA の最新機材や、プロ向けの特殊な楽器も扱っていて、後の R&D セクション発足といった面でも製品開発の最前線にあったと思います。

1970年代のYAMAHA 渋谷店 売り場の様子(天童氏ご提供写真)‌ ‌

渋谷店がそういう役割を担っていたことと、当時(1980年代前半)はまだ、プロ向けの機材を多く扱っている店が都内にあまりなかったこともあって、プロからアマチュアまでの幅広いミュージシャンが楽器売り場や、ライブハウス「 Doin' 」に来てくれました。Doin'  に出演してくれたミュージシャンには、PRISM(プリズム)、SHEENA & THE ROKKETS(シーナ&ザ・ロケッツ)もいてね。PRISM に至っては、LA でのアルバムレコーディング直前に渡米前の最終リハーサル場所として「 Doin' 」を数日間押さえるという使い方もされていました。
さらに嬉しいことには、来日したアーティストも渋谷店にふらっと来てくれていて。私が入社する以前ですが、1977年には女性ロックバンドの The Runaways(ザ・ランナウェイズ)が LM センターでリハーサルをやっていたり、私が働いていた当時だとRick Springfield(リック・スプリングフィールド)が訪れてくれました。その時は各売り場の担当者は彼らのサポートにてんやわんやで、女性スタッフ達は裏で密かにキャーキャー言っていましたね。他にも1990年代では R&D セクションが新設されたときに Chick Corea(チック・コリア)がオープン記念パーティーへ参列してくれたり、 Michael Jackson(マイケル・ジャクソン)も訪れてくれたりと、今では夢のような話しです。

-ビッグネームだらけですね。
渋谷店の2年を経て、1984年ごろ Asahi Sound Studios へ移籍されたとのことでしたが、スタジオを変えるきっかけはありましたか?

ライブハウスにはプロがたくさん来ていましたが、LM センターでのレコーディングはアマチュアやセミプロが主な顧客だったのと、設置されてた機材が乏しいということも有り、エンジニアリング的な成長には限界があると感じたんですよね。そろそろ渋谷店を卒業して、次のステップに行こうかなと思ったことがきっかけです。

-Asahi Sound Studios ではどのようなお仕事内容でしたか?

CM 音楽、劇伴がメインで、時々レコードの原盤制作も入っていました。
当時は超アナログの世界だったので、音楽を録ってすぐに音源を映像に合わせて確認するんですよ。映像合わせは全部手作業のポン出し作業(※3)なので、テープレコーダーの立ち上がり特性などを体感的に熟知することにも繋がりました。
あと、CM 音楽や劇伴は秒単位で仕事が動く世界なので、仕事のスピード感だったり、確実に作業する段取り、エンジニアやディレクターとのコミュニケーション、あとは映像のことを多少知れたり。CM 音楽は色んなジャンルの音楽が取り入れられているので、様々なジャンルの勉強にもなりました。

(※3)ポン出し作業。想定するタイミングに合わせて、手動で音を出すこと。

Asahi Sound Studios(501st Control Room)(天童氏ご提供写真)

-映像音楽はレコード制作とまた違いがあるんですね。
Asahi Sound Studios のあとは、Studio TWO TWO ONE に移られたとお聞きしています。

そうですね。次に行ったスタジオが Studio TWO TWO ONE です。
ここは、レコードメーカーには属していない、インディペンデントスタジオだったんですけど、ここのスタジオへ来なかったレコード会社はないんじゃないかっていうぐらいすごい人気がありました。
当時は日本がバブルに向かっていた時代だったから、原盤制作数が鬼のように多かったこともあり、様々なアーティストとか、アレンジャー、プロデューサーと接することができました。
ラッキーだったのは、自分がアシスタントエンジニアという立場で色々なエンジニアの現場に関われたことです。エンジニアは基本的には個人プレーで、他のエンジニアの仕事はなかなか見ることが出来ないのでね。
Studio TWO TWO ONE で働いていた時、スタジオに来たときにはいつも私を指名をしてくれてたエンジニアの方がいたんですが、新しく会社作るからそっちに来ないかということで、Z's Inc. & Studio Z'd へ移籍したんですよね。Z's は、プロデューサー(2名)、アレンジャー(2名)、マニピュレーター(4名)エンジニア(10名)が所属する組織で、Z’d というスタジオも運営していた「クリエーター集団」という感じでした。
そこで3年くらい正社員エンジニアとして所属して、90年にはフリーランスとして契約変更して、ブッキングマネージメント面だけは2004年まで Z's に預けていました。

Studio TWO TWO ONE(2st Control Room)(天童氏ご提供写真)

フリーランスとして独立

-独立しようと思ったキッカケ、フリーでもやっていけるかなと思った指標のようなものはありましたか?

ここまで仕事があれば生計が立てられるとか、指標みたいなのがあったわけではないんですよね。なので、不安だらけでした。
スタジオ所属の社員エンジニアだと、スタジオが持ってきた仕事がメインになるので、ある程度内容やクライアントも固定されてしまうし、毎回同じスタジオでの作業になるので煮詰まる面もあったりして。
フリーランスの場合は、クライアントも多岐にわたるし、アーティストが気に入ってるスタジオもそれぞれ違う。そのスタジオが好きな理由も千差万別なので、私も色々な引き出しが増えていくんですよ。毎回要望に合わせて、そこのスタジオのベストをどうやって出したらいいかっていう、クイズをさせられてるようなもので、フリーランスって色々厳しい反面、すごく勉強になるんですよね。なので、フリーランスになりたくてなったっていうよりかは、ステップアップを考えたら自然とフリーランスになっていたっていうのが近いかな。逆にいうと、それがフリーの世界なのかなっていう。

-毎回違うスタジオだと、スタジオの大きさ、置いてある機材、反響の仕方など、色々と違うことが多いから、それこそ腕が試されそうですね。

極端な話、アマチュアが使うような小さいスタジオでもある程度機材を持ち込んだり、そこの方と徹底的に話し込むと「ここでこんな音出せるのか?!」みたいなこともありました。音って機材じゃなくて、結局人や方法論で変わるんですよね。良い機材をいくら使っても全然気持ち良い音が録れない場合もあれば、機材が少なくても創意工夫で頑張れば、思うままの音が出たり。音にはそういった面があって、すごく不思議っていうか、面白いですよ。

Studio Z’d(天童氏ご提供写真)‌ ‌

-天童さんが環境を変えるタイミングは、いつもステップアップが目的だったんですね。
最終的にはフリーランスになるエンジニアが多いのでしょうか?

私の仲間でも、同じスタジオで何十年も頑張っている人はもちろんいますよ。
スタジオ所属とフリーランスには、それぞれ一長一短がありますね。
社員のエンジニアは安定を望める一方で、フリーランスのように多種多様な世界は見れないかなと思います。フリーランスが見られる世界は、毎回スタジオやクライアント、アーティストなど様々な条件が違う、要するに、自分と音楽がすごくシビアな世界。
スタジオ所属の場合にはスタジオ側がブッキングするので、例えば歌謡曲から演歌、劇伴だったり、オールマイティーに平均点以上でこなせる部分も必要だと思います。

-確かに、フリーランスだとその人の技量が大きく関わってくる部分ですね。

フリーランスを始めた頃は30代になったばかりだったんですけど、四六時中、音のことばかりを考えていました。スタジオごとに色々制約などもあるので、その制約の中で機材をたくさん持ち込まずに、どうやったらいい音が出せるかな、どうしたらあの気持ちいい音が出るかな、とか。
ある時スタジオに行って音を録っていた時に、そこのスタジオのアシスタントから「ここのピアノの音がしてますね」って言われて。要するに 本来出してほしかった音を出してくれてありがとう、みたいに言われた時は嬉しかったですね。

-時代が進む中で、スタジオの状況も昔と大きく変わってきたのではないかと思うのですが、変化を感じる部分はありますか?

2000年代に入ると ProTools などの DAW が進化し、使用するコンピューターの CPU もパワフルになったため、音楽制作のあり方や、スタジオのニーズがだんだんと変わっていきましたね。
スタジオで使われるレコーダーは、デジタル・マルチトラック・テープレコーダーから、HDD ベースのレコーディングへと順次移行して、現在では DAW での HDD レコーディングが標準的です。また、デジタル・マルチトラック・テープレコーダーがあるスタジオでしか出来なかったオーバー・ダブやミキシング作業も、DAWの普及により小さなスタジオや自宅で出来るようになりました。

現代におけるスタジオが必要不可欠なケースとしては、同時に複数のミュージシャンで録る時や、大編成のストリングスやブラスなどを録る時、あえてアナログ・マルチトラック・レコーダーで録る時などです。それ以外の場合は、小〜中規模のスタジオで、奏者単体ごとに録って重ねて行くような手法が以前より増えたと思います。
それでも、ミキシングはアナログ・コンソールでやった方がサウンドとして心地よいと感じるクライアントやエンジニアは居るため、レコーダーのみをテープから HDD に変え、それ以外は、それまでのスタジオ・ワークと同じ手法で続けている人も多く居ます。
私は「コンソール・ミックス」「コンソール・ミックス + ProTools 内でのミックス(ハイブリッド)」「 ProTools 内だけで完結するミックス」のどれにも良い部分があると感じているので、その時々で自由に選べる環境だけは、いつまでも残っていて欲しいと願っています。

これまでの経験について

Solid State Logic SL4064G+ Module(天童氏ご提供写真)‌ ‌

-これまでで言われて嬉しかったことは何ですか?

今まで自分が言われた中で1番嬉しかったのは「全部の楽器が聞こえて、全部見えて、でもちゃんとサウンドになってる」ってことです。これはただ単に全部の音が横並びで聞こえるということではなくてね。よくセオリーで「この楽器は◯◯の音にマスキングされるんですよ」と言われることがあっても、実はさほど深刻に考えなくてもいいんじゃないかなって思っています。
音楽には影の役割になっている音もあると感じていて、絵で言うと油絵の少し見えてる下の色みたいな。その音はさほど聞こえないけど、無いと何か変だし、壁というか、パッド(※4)みたいな効果も生んでいる。
だから作ってる時にも「この音は聞かせない音」などと考えるのではなくて、聞こえなくなった時は聞こえなくなった役割でいい時もあれば、その音が聞こえなくなると他の音との兼ね合いが薄れる場合は、定位だったり、エフェクト処理だったりをやってく。
こうやって自分の中で色々やっているから、「全部の音がバッチリ聞こえるね」って喜んでもらえるのは、すごく嬉しいんです。
とにかく音が、楽器が好きだから、どの音もぞんざいに扱いたくないんですよね。

(※4)パッド。英語表記で「 PAD 」と表記し、絨毯のように敷き詰められたような事を表現する。一般的に音楽で使用される際は、音の隙間が埋まり空間に広がりが生まれるようなイメージで使用される。

-順調にキャリアを積まれてきた印象ですが、挫折しそうになったことはありますか?

ありますよ。やっぱり求められた音をうまく作れない時とか、コミュニケーションがどうしてもしっくりいかない時とかは、こっそり落ち込んでましたね。

-それはどのように乗り越えられましたか?

コミュニケーションは、波長が合わない人とはどんなに頑張っても合わない。そこを誰にでも合わせようと頑張っちゃうから、落ち込んでいると分かったんです。
これは音に関しても同じですね。どんなに頑張っても、自分が作れない種類の音ってあるんですよ。 煮詰まった時に、努力すればするほどどんどん煮詰まっていったので、自分が得意とする音を探すことの方が早いなと思って。
自分の場合は、いわゆるナチュラルな、オルタネイティブ的な音が向いてるなって、落ち込んでた時に分かったんですよね。これは逃げではなくて、自己肯定的な発見というか。
苦手なものがあっても、他のところで求められるオファーが来ちゃえば、そっちで自分は確立できるわけだから、それで救われたっていうか。

楽器経験から活かされるているもの

-初めはベースでプロを目指されていたということで、楽器経験から生かされていることはありますか?

自分のルーツになっている音楽だと、音を探求する時にはストレートにすんなりと作れるなと思っています。「こういう音にしたい」と思った時に、どういう風にすればいいっていうのは感覚と、経験で培われるというか。
例えば、料理人でいったら作りたい食べ物があるとして、食材を知っていれば、あとは道具と料理の仕方さえ分かればどんどん作れるような、そんな感じ。

楽器でアンサンブルの場合、自分の演奏する楽器の音だけじゃなくて周りの音も同時に聞くので、私の場合はジャズ・フュージョンに触れたのが大きいですね。演奏としての極みも聴き手として色々と体感出来たし。
時代的にも、ロックはまだ使うコードとアレンジが全て、生音でちゃんと作り込む、みたいな時代だったので、音がすごく耳に入ってきやすかったんですよね。
だから、私は楽器演奏から音楽にのめり込んでいって、結局は楽器好き、音楽好きってとこから始まってるから、今でも根底にあるのはそこで。楽器が生きた音っていうのは作りたいと思っていますね。勿論、声=ボーカルも、楽器として捉えた同様の扱いとして含まれます。

さいごに

Studio TWO TWO ONE(2st Control Room)(天童氏ご提供写真)

-天童さんが音楽を通じて届けていきたいことは何ですか?

「共鳴」っていう言葉が一番近いのかな。
音楽を聞いた時、かっこいい、 悲しい、嬉しい、楽しい...色んな感受性が生まれるじゃないですか。
BGM で流れていても、心地いいものだったり、怒っている時に激しい曲を聞くと気持ちが和らいだり。もっと言えば、昔に聞いてた曲がふと流れて、過去の記憶とか、当時の気持ちを思い出させてくれて、それがその時の自分に対していい刺激になったり。これって一言で言うなら、共鳴だと思うんですよ。
色んな共鳴を与えられるのが音楽で、みんなも音楽を自分の味方をしてくれるものとして聞いていると思うので、そういう人たちを裏切らないようにしたいです。
だから自分が携わったもので、自分が共鳴しないものは私のエンジニアリングがダメなんだと感じます。
なので、自分が若い時にたくさんの音楽に共鳴したことと同じように共鳴してもらえれば、それが作り手側としては1番嬉しいかな。
聞き手側としても、自分が共鳴できるものをどんどん探してもらいたいですね。


40年以上のキャリアを持つ天童氏。時代が変化していくなかでも、常に音に真摯に向き合い、追い求めている姿が印象的でした。

「音」がよりシビアに関わってくるフリーランスの世界。今でも根底にあるのは、楽器が好き、音楽が好きという気持ち、とお話して下さいました。
その想いによって天童氏が手掛けた作品は、まるで一つ一つの音に生命が宿っているようです。
30年以上もフリーランスでご活躍されているのには、そのような「音」への情熱が、絶えず燃え続けているからなのでしょう。


天童淳氏プロフィール

北海道札幌市出身の音楽エンジニア。井上陽水さん、岩崎宏美さんをはじめとした数々の作品を手掛けている。
1982年からエンジニアとしての道を歩み始め、様々な一流ミュージシャンと仕事を重ねていき、現在はフリーランスになって約33年目となる。
Nami
Written by
Nami

東京出身の音楽クリエイター。 幼少期から音楽に触れ、高校時代ではボーカルを始める。その後弾き語りやバンドなど音楽活動を続けるうちに、自然の流れで楽曲制作をするように。 多様な音楽スタイルを聴くのが好きで、ジャンルレスな音楽感覚が強み。 現在は、ボーカル、DTM講師の傍ら音楽制作を行なっている。 今後、音楽制作やボーカルの依頼を増やし、さらに活動の幅を広げることを目指している。

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